小学6年生の娘と
今日あった出来事を
お話させてください。
娘は今、
学校と、不登校の子たちが
自由に集まれる支援教室を、
その日の自分に合わせて
選びながら通っています。
今日、支援教室からの帰り道。
車に乗った娘が、
悔しそうに
涙声で話し始めました。
算数の課題で
わからないところがあり、
先生に「わからない」
と伝えたそうです。
すると、
「え〜、なんでわからないの?
いつもできてるでしょ」
「おざわさんならわかるでしょ。
ほら、半分にして
割合出せばいいんだよ」
と言われたそうです。
娘は、“やり方”が
わからなかったわけでは
ありません。
半分にして割合を出す。
そこはわかっていた。
知りたかったのは、
「なぜ、半分にするの?」
でした。
「今、私に話したみたいに
先生には言えなかったの?」
と聞くと、
「そんなの言う隙なかった。
“わかるでしょ!
ほら半分にして”
って急かされて、
もう、すごく嫌だった〜。」
と言いました。
その話を聞いて、
私は、学生時代の自分を
思い出しました。
言語聴覚士になるためには
統計学が必須科目でした。
ですが、
私は統計学が大の苦手でした。
先生が計算方法を
説明してくれても、
その前の、
「なぜ、そこでそうなるの?」
がわからないと、
そこで頭が止まってしまう。
勇気を出して、
「先生、さっきのここを
もう一度教えてください」
と聞いた時、
返ってきたのは、
「そこは理解しなくてもいいから、
やり方を覚えて」
でした。
え?
わかってないのに
先へ進んでいいの?
そのモヤモヤが
ものすごく気持ち悪かった。
そんな私を見ていた友人が、
休み時間になった時に
スタスタと私のところにきて、
「どこで止まってんの?」
と聞いてくれました。
この一言、
今でも覚えています。
私がどこまでわかっていて、
どこからわからなくなったのか。
そこまで戻って、
わかりやすく分解して
教えてくれた。
私はようやく、
「なるほど!」
までたどり着けました。
そして今日。
娘は家に帰るなり
iPadを開き、
チャッピーに質問しました。
2分で解決。
すると娘が一言。
「やっぱり学校行かなくても、
勉強はAIとやった方が早い。」
……。
それはできれば
体験させたかったことじゃない(笑)
確かに、
答えのある問いなら
AIは速い。
「ここがわからない」と聞けば、
その場所まで戻って
何度でも説明してくれます。
娘のその一言を聞いて、
私は考えました。
私は、正解を早く出せる子を
育てたいんだっけ?
私も昔は、
「ちゃんとできる」
「間違えない」
「人に迷惑をかけない」
そんなことを
ずいぶん大事にして
生きてきました。
子育てでも、
知らないうちに同じ“ちゃんと”を
娘に求めていた時期もありました。
だけど、
それって、誰の“ちゃんと”なんだろう。
私が娘に渡したいのは、
わからないけど
正解を出せる力じゃありません。
「なぜ?」
「ここがわからない」
「私はこう思う」
を、自分の言葉で出せること。
そして、
そこから自分で考えて、
「私はこっちへ行く」
と選べる力を育てたいです。
今日、算数は
AIが2分で解決し、
娘は「勉強は学校よりもAI!」
と学習してしまいました(涙)
けれど、そんなちょっぴり
残念な気持ちを感じた日でも、
私が一番嬉しかったことは、
娘が車に乗ってすぐ、
「本当はここを聞きたかった」
「言う隙がなかった」
「私はここがわからなかった」
と、
悔しさまで含めて
自分の言葉で話してくれたことです。
吃音がある子を育てていると、
「今日はどもらなかった」
にホッとする日があります。
私にもありました。
けれど、
どもらなかったことと、
言いたかったことを
言えたことは
同じではありません。
私は、
吃音がよくなるのを待ってから
人生を始める子には
したくありません。
どもる日も、
うまく言葉にならない日も、
「私はこう思う」
「私はこれをやりたい」
を諦めない。
私が育てたいのは、
自分の言葉で考え、
自分の気持ちを伝え、
自分で選択できる人生を歩める子です。
今、娘は、
学校へ行く日も、
支援教室へ行く日も、
自分で選んでいます。
小さい頃、
「この子、大丈夫かな」と
私が答えを探し続けていた娘が、
今はちゃんと、
「今日は私はこっちへ行く」
を選んでいる。
「なぜ?」を消さない。
「わからない」を恥ずかしいものにしない。
「私はこう思う」を
誰かの正解で上書きしない。
子どもの中にすでにあるものを、
自分の人生を選ぶ時に
使える力まで育てていく。
私は、そんな子育てを
娘と一緒に続けていきます。


