今年は東日本大震災から10年目の年です。千葉にいた私も大きな揺れを経験し、さらに実家が宮城の沿岸部だったため家族の状況を心配するあまり息子を不安にさせてしまいました。その時得た教訓から学んだ発達障害の子どもへの対応をお伝えします。 |
【目次】
1.3.11から10年目の余震で思い出すあの時のこと
2021年2月13日夜11時過ぎ、福島沖震源の最大震度6弱という大きな地震がありました。
私が住んでいる関東地方でも大きな揺れを感じました。
この地震は東日本大震災の余震でした。
今年は東日本大震災から10年目です。
10年もたったのにまだ余震があるとは…驚いてしまいました。
この地震で3.11当時のことをまざまざと思い出しました。
2.東日本大震災、その時私は
私は東日本大震災があったときは千葉の湾岸部にある会社に勤めていました。会社は埋め立て地で地盤が弱い地域にありました。
息子は当時年中組で、保育園に預けて働いていました。
あの地震の時、会社の6階のフロアにいました。
少し縦揺れがあったあと、いつもより大きな横揺れに、PC作業をしていた私はあわてて机の下にもぐりました。
机の脚をつかんでもそのまま机ごと円を描くように揺れます。
揺れも途中グーッと激しくなったりして、さっきまで作業していた大きなモニターがドスン!とすごい音を立てて机の上から転げ落ちています。
揺れている時間はとても長く感じました。
このままこのビルが崩れて落ちてしまうのではないかと思うほどの揺れでした。本当に怖かったです。
この揺れはただごとではないとすぐに気が付きました。
屋外へ避難している途中、同僚がスマホを見て、「震源地が宮城沖で最大震度6強の地震で10mの津波が予想されている」と話していました。
それを聞いて何を言っているのか一瞬意味がわかりませんでしたが、血の気がひきました。
当時両親と祖父が住む家は宮城県の沿岸部にあったからです。
震源の宮城から離れている千葉でさえこんな大きな揺れで、震源に近い宮城なら実家はどんなことになっているだろう…。
しかも、10mの巨大津波!海から近い実家は津波に飲み込まれてしまう!
親は今どこにいるのか、無事なのか、連絡を取ろうと試みましたが全く連絡がとれません。
私は実家の家族が心配なのと、たびたびおきる余震の恐怖で会社の外に避難してからも動悸が止まりませんでした。
しばらくすると宮城県の高台に住む姉からメールがあり、
「地震発生時は両親と一緒だったが、おじいちゃんを家に残したままだったから、両親は慌てて車で帰ってしまった」
というのです。
高台にいたのに沿岸部の家に戻るなんて!
もし、津波のことを知らず、沿岸の道路を帰って途中で津波にまきこまれていたら?と考えて不安で胸が張り裂けそうでした。
私は子どもを保育園に預けているので、そちらの状況も心配です。
会社から家までは電車とバスを乗り継ぎ50分の道のりですが、もちろん電車はすべて止まっています。
私はどうしようかと途方に暮れていましたが、幸い自家用車で通勤していた方が自宅とは反対方向にも関わらず車に乗せてくれ、私は通常の帰宅時間に家に帰ることができました。
保育園の息子のクラスに入るとたくさんの子どもたちがワイワイ遊んでいる中、息子だけが先生に抱っこされ、ぎゅっと先生にしがみついて不安気な表情で待っていました。
「お母さんが来たよ!」と、先生が声をかけると、息子は私に飛びついてきました。
息子は無事だったと安心しましたが、やはり気持ちは連絡が取れない宮城の家族にありました。
会社はその後数日休業になり、保育園も休みのため私と息子は家にいました。
家で地震や津波のニュースを見ながら、実家周辺の被害状況や親の安否情報を知りたくて、必死でインターネットを検索していました。
私のふるさとが壊滅的な被害を受けた津波の映像を見ていると、涙が溢れます。
精神的に不安定になり、夫にニュースを見るのを止められてしまうほどでした。
なかなか両親と祖父の安否が確認できず不安な日々を過ごしましたが、地震発生から4日後にようやく避難所にいると連絡があり、両親と祖父の無事が確認できました。
しかし、ホッとしたのもつかの間、今度は我が子の様子に異変があったのです。
3.敏感な息子がもってしまった恐怖心
息子は、地震の恐怖で保育園に行けなくなってしまいました。
保育園に行こう、と誘っても今までしたことがないような全力の拒否です。
保育園に行くのを激しく嫌がり抵抗する息子。私はどうすることもできませんでした。
保育園で味わった地震の恐怖とともに、私が実家の家族のことを心配している不安な様子を敏感に感じとってしまったのでしょう。
いつもと違う空気を感じた息子がこうなってしまうのも無理のないこと。
息子を不安にさせて申し訳ない気持ちでした。
家族の安否を確認できない間、私の精神状態は極限に追い詰められていました。
息子は発達障害の診断はないけれど敏感な子です。
私は息子の敏感さがわかっていながらも、自分の不安で一杯いっぱいになってしまい、息子のことを気遣う余裕がなかったのです。
結局息子はその後しばらく保育園を休み、息子とともに私も会社を休んで家にいました。
そのうちとうとう会社から出勤するように電話で促され、「もう地震は終わったから大丈夫」と、半ば説得のような形で息子に話をしました。
久々に登園する朝「行きたくない!」と暴れる息子を夫が担いで、無理やり置いていくような形で保育園に連れて行きました。
私も息子に申し訳なく、辛くて涙を流しながら会社に行きました。
しかし、会社に行くと、もうそこは地震前の日常の風景でした。
とても不思議な気持ちでした。
私も息子もあんなに苦しかったのに、皆は普通に仕事している。
ここにはもう日常があると感じました。
私はその日、溜まっていた仕事に没頭して、震災の辛さを少し軽くすることができました。
保育園に迎えに行った時、息子ははじめのうちは泣いていたけれど午後には元気に遊べるようになったと先生から聞きホッとしました。
次の日は少し保育園に行くのを渋りましたが、そこから徐々に私と息子の日常が戻っていきました。
4.震災の教訓がら学んだ発達障害の子どもへの対応とは?
私はこのときの反省から、子どもには不安を募らせない対応を心掛けています。
当時年中だった息子は今中学生です。下に震災後に生まれた小2の娘がいます。
娘は発達障害で自閉傾向があり、敏感な息子以上にとても不安が強いタイプです。
不安が強い娘には日ごろから災害のニュースはあまり見せないようにしています。
情報を知るのは大切なことですが、親が情報をとりたくて見ているニュースを、子どもが一緒に見てしまうと子どもの不安が増してしまうことがあります。
特に映像は子どもにとって強烈な印象を残してしまうので注意が必要です。
また、子どもはいつもと違う様子からお母さんの気持ちを敏感に感じ取ってしまうことがあるのです。
だから、お母さんは笑顔でいるのが一番大事です。
とはいっても、特に自分が被災しているならそうもいかない状況もあるでしょう。
私は仕事に没頭して辛さが少し和らいだ経験から、意識して切り替えることも大事だと感じました。
可能ならば思い切って場所を変えて気分転換をしたり、何かに没頭したり楽しいことをしてもいいのです。
また、我が家では震災後に用意した非常持ち出し袋の中に、子どもと遊べるカードゲームを入れています。
非常持ち出し袋にはそういった子どもの気持ちを楽しくしたり、辛さを和らげるおもちゃなど日常を取り戻せるグッズも必要です。
あの時の自分の反省は子どものことを考える余裕がなかったということです。
確かに非常事態だけれど、その時自分ができる最善の策は待つことしかなかったのです。
探しに行けるわけでもないし、親になにかあってもどうできるわけでもないのです。
なのに、不安感から冷静さを欠いて自分ができることを見失っていたと感じるのです。
私が守れるのは目の前のこの子だと考えるべきだったと今は思います。
日本ではこれまで数々の災害がありました。
多くの方の尊い命が失われ、災害のため財産も失い、地域や家族の分断も起こり、辛い思いをした方がたくさんいらっしゃいます。
災害で被災された方には心よりお見舞い申し上げます。
教訓を次に生かす行動にすることが大事だと考え、経験をお伝えしました。
私の経験が皆さんが災害について考えるきっかけにしていただけたら嬉しいです。
レジリエンスがあれば予測不可能な災害があっても立ち直れる!参考にしてくださいね!
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執筆者:笹原みらい
(発達科学コミュニケーショントレーナー)
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